理学療法士のアオイ(二十七)の担当患者クマガイさん(六十八)は、脳の病気で左半身に麻痺が残った。リハビリ室での口癖は「もう十分だ」。歩行器で歩けるようになり、退院日も三十日後に決まり、家族は喜んでいる。だがアオイは知っている。
クマガイさんは夕方、リハビリ室の窓から、いつも同じ方向を見ている。視線の先には煙突がある。銭湯「松の湯」の煙突だ。クマガイさんは長年、仕事帰りに松の湯へ通った男だった。ある日アオイは訊いた。「退院したら、松の湯、行きます?」。
クマガイさんは初めて目をそらした。「行かん。……またげんだろう、あの縁は」。湯船の縁をまたぐ——健康な人には何でもないその動作が、麻痺の残る体には壁になる。家で娘さんに手伝ってもらう風呂は、安全で、清潔で、そして彼の何かを毎日少しずつ削っていた。
アオイは翌日から、リハビリの最後に「二人だけの課題」を足した。マットの上に置いた、湯船と同じ高さの木の枠。足の振り出し、手すりの握り替え、体重の移し方。目標は家族にも言っていない。退院の日、その足で松の湯へ行き、誰の手も借りずに、湯船をまたぐ。
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