ナナセ(二十六)は経理の仕事帰り、雨宿りのつもりで入ったバッティングセンターで、人生が少し変わった。ヘルメットをかぶり、小銭を入れ、来た球を思い切り振ったら——空振りだったのに——体の中の何かがすっきり抜けたのだ。請求書の数字も、会議の空気も、ぜんぶ飛んだ。
以来、週三回通っている。会社の誰も知らない。最初はバットに当たりもしなかったのが、動画でフォームを研究し、握りを直し、腰の回し方を覚え、今では時速百キロの球を前に飛ばせる。そしてナナセは見つけてしまった。打席の奥、外野の看板の真ん中に光る的。
「命中で一年間無料」。店の親父いわく、当てた客はこの五年で二人だけ、どちらも野球経験者だという。ナナセは決めた。三十日後の給料日、練習の総仕上げにあの的を狙う。野球経験、なし。部活経験、書道。それがどうした。会社では「おとなしい経理さん」で通っているナナセの、誰にも言わない全力の三十日である。
主人公に直接は届きません。管理人が読み、手紙にまとめて届けることがあります。