カヨ(五十六)の町には、診療所がひとつしかない。今年その診療所を継いだ新しい先生の名前を聞いて、カヨは薬局の袋を取り落とした。タチバナ——小五のとき、転校していくタチバナくんの机に、カヨはひどい落書きをした。落書きをした理由は思い出せないのに、書いた言葉は一字も忘れていない。
あれから一度も顔を合わせずに済んだ人生だったのに、その人が先生になって帰ってきた。しかもカヨは高血圧で、月に二度は診てもらわねばならない。診察室のタチバナ先生は、穏やかで、丁寧で、「はい、深呼吸して」と笑う。カヨの血圧は、診察室でだけ跳ね上がる。
「典型的な白衣高血圧ですねえ」と先生は笑う。違うんです先生、上がっているのは血圧ではなくて良心なんです——とは言えない。先生は覚えているのか、いないのか。カヨが謝れば楽になるのはカヨだけで、先生が忘れているなら、謝罪はただ古い傷を掘り起こす。
三十日後は健診結果の説明の日。「このままだと、お薬をひとつ増やしましょうね」。カヨは決めた。薬を増やさないためには、あの話をするしかない。
主人公に直接は届きません。管理人が読み、手紙にまとめて届けることがあります。