牛は、盆も正月も乳を出す。だから酪農家は休めない。山あいのミタさん夫婦の牧場は、夫婦二人で牛六十頭、この十年、二人そろっての休みが一日もない。ワタル(三十二)の仕事は、その「休めない」を代わることだ。酪農ヘルパー。頼まれた日に牧場へ入り、搾乳と餌やりと牛舎の掃除を引き受けて、酪農家に休日を渡す。
ただしこの仕事、腕より先に要るものがある。牛の信用だ。牛は臆病で、知らない人間の手では乳の出が変わる。だからワタルは本番の前に何度も通う。一頭ずつの性格を覚え、人見知りのユキには特に時間をかけ、声と手の匂いを覚えてもらい、たまに蹴られながら、少しずつ「知らない人」を卒業していく。
さて、ミタさん夫婦には三十日後、予定がある。結婚二十五年目にして初めての、一泊二日の旅行。行き先は、奥さんが新婚のころから言い続けてきた、海の見える宿だ。夫婦で牧場を空けるのは、開業以来初めてだという。つまりワタルの三十日は、六十頭の全員に「この人なら大丈夫」と認められるための三十日である。
出発の朝、ミタさんが一度も振り返らずにバスに乗れたら、この仕事は成功だ。
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