第1話

うろおぼえの世界線昨日の読了 0約1分

「題名は分かりません。表紙は青。狐が出てきます。最後に泣きました。——五十三年前に読んだ本です」。カウンターのタエさん(七十三)の注文に、市立図書館の司書キリコ(五十八)は眉ひとつ動かさなかった。「承ります」。キリコは、うろおぼえ探しの名人である。

記憶の断片は、嘘をつく。青い表紙は緑かもしれない。狐は狸かもしれない。だが「最後に泣いた」は、嘘をつかない。聞き取りが始まる。読んだのは何歳の頃か。学校の図書室か、家か。誰かに借りたのか。——タエさんはそこで、少しだけ黙った。

「……同級生の、男の子です」。五十三年前、その子が「これ、いいよ」と貸してくれた本。返す前に彼の家は遠くへ移り、本は親に処分され、題名だけがすっぽり抜け落ちた。そして三十日後、五十三年ぶりの同窓会がある。彼も来るという。タエさんは、あの本の話がしたいのだ。

題名も知らないまま五十三年、忘れられなかった本の話を。キリコは書庫と、県じゅうの司書の伝手を総動員する。廃刊、改題、全集の中にだけ生き残った短編——本というものは、姿を変えて生き延びていることがある。同窓会の日までに、青い表紙の狐に辿り着けるか。

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