おれは、守護霊になった。なりたてである。きのうの今日なので、研修も引き継ぎもなかった。分かっているのは、持ち時間が三十日だということと、できることが「そよ風ひとつぶん、一日一回」だけだということ。つまり、残りぜんぶで三十回。
家は今、しんとしている。当たり前だ、きのうの今日である。妻は夜中の台所で、立ったままお茶を飲んでいる。娘のサヤは、宿題の同じ行を三十分眺めている。冷蔵庫では、おれが最後に買った当たりの一品が、誰にも食べられないまま鎮座している。
見ているだけ、というのは性に合わない。おれは決めた。この三十日は、見送りの三十日ではない。そよ風三十回で、この家をもう一度あたためる、おれの最後の仕事の三十日である。使いどころは毎晩考える。降り出す前に、取り込み忘れの洗濯物を揺らして知らせる。
サヤの開けっぱなしの教科書を、いい感じのページでめくる。妻が湯呑みを持ったまま寝落ちしそうな夜は、頬をひとなでして、布団を思い出させる。一回ずつ、家の空気をやわらかくしていく。目指す景色は決まっている。夕飯どき、「パパってさ」と誰かが笑い出して、食卓ごと笑う日だ。
幸せに戻るというのは、泣かない日が来ることではない。おれの話をして、笑える日が来ることだ。三十日目にその景色が見られたら——最後の一回はカーテンだ。いちばん機嫌よく揺らして、いってきますの代わりにする。今夜が、一回目である。
守護霊まで数に入れるのか。あの世もこの世も、役所は雑である。
主人公に直接は届きません。管理人が読み、手紙にまとめて届けることがあります。