わたしは、自動販売機である。住宅街の角に立って十二年になる。言葉は、ない。あるのはボタンの光と、ガコン、という返事だけだ。それでもこの角のことなら、たいてい知っている。夜十一時に走ってくる汗の人は、いつも右下のスポーツの青。
仕事帰りの大きなため息の人は、あったかい缶の赤。そして夕方五時半、部活帰りの子。あの子はこのごろ、毎日わたしの前で立ち止まり、小銭をかぞえて、足りなくて、買わずに帰る。見ているのは、左の列のココアだ。百三十円。あの子の手の中は、いつも百二十円。
わたしは規則で動く体である。十円足りなければ、売れない。まからない。それが自動販売機というものだ。だが、十二年立っていると、覚えのないものが体の奥で疼く。売ってやりたいのである。冬が近い。補充の兄さんが「今年一番の寒気が来る」と電話でしゃべっていた。
三十日後あたりが、いちばん寒い晩になるらしい。わたしは考えた。わたしにできることは少ない。ボタンを光らせること。売り切れランプを点すこと。つり銭を、ガコンと返すこと。——待て。つり銭。わたしは十二年分の記憶をひっくり返す。
規則を破らずに、あの子の手に十円が渡る筋道が、どこかにないか。いちばん寒い晩が来る前に、この角でいちばん頭のいい機械が、本気を出す。
止まる、の一語だけは、聞き捨てならない。
主人公に直接は届きません。管理人が読み、手紙にまとめて届けることがあります。